食べ物は・・・
走るときの食料の確保ですが、いくら物価が安いとはいえ、300円では買える物が限られます。
「サンマの蒲焼き缶詰」一個30円、一日に買える物はそれだけです。
飯ごうで炊いたご飯に塩を混ぜて自転車のハンドルにぶら下げて走り、途中で腹が減れば、缶詰の魚の一切れを口に入れ、ご飯を大量に掻き込むんですが、毎回同じ食べ物でも空腹なので充分満足できました。
野菜類は道ばたの畑で作業しているおばちゃんに 「トマトちょうだい」 「ナスビちょうだい」 「キャベツちょうだい」 等と声をかけ、只一つの調味料である「塩」を付けて生のまま食べていましたが、それでも大量の汗をかくので塩分不足になるのか、「塩」だけを舐めながら走ることもあります。
また、米を炊く道具は、父の兵隊時代の飯ごうのみで、今のように小型ガスコンロなど有りませんから、途中、どんな集落にもあった小学校・中学校の 「小使いさん」 (こづかいさんと読みます) にお願いして、学校の器具で炊飯をさせて戴きました。
当時の学校には必ず 「小使いさん」 (今の言葉で用務員さん) の家族が校舎の中に住んで居ましたから、学校の水を使い、ガスを使い、トイレを使って、さらに漬け物や卵を持たせてくれる人も居てとてもありがたい事でした。
どうやって眠る・・・
眠るところは悲惨の極みです。今の自分では、とっても出来ません。なにせテントも寝袋も無いんですから!
野宿の方法は、まず、わずかばかり持っている衣類を全部着て、ゴム長靴を履き、ゴム合羽を着て、虫刺されを避けるため、風呂敷を頭から顔を覆うように被ってから、合羽の帽子を被って、道路脇の草むらに横になって眠る。
いくら8月でも北海道の夏の夜は10度くらいまで気温が下がる日があるので、昼間の汗が冷える気化熱と、明け方の冷え込みで何度も寒さに震えました。
場所によっては、いや、ほとんどの場所で「蚊」の大群に襲われます。小型の「蚊」はそのまま眠り続けることが出来ましたが、大型で縞模様の「蚊」は大敵なので、やっぱり逃げ出す他ありません。
また、バス停の小屋も見つかれば利用しましたが、床が無く、土間で、扉もありませんが、3方向囲われて屋根があるので、とても安心できました。雨が降ったら橋の下も寝床に使いましたが、今考えるととっても危険です。
そして・・・
自転車旅行中は、すべてが自分の時間です。
山間の農家の子供ですが、この時ばかりは水田で泥だらけになって働くことも無く、牛や家畜の世話をすることも無く、ましてや、今日は 「70Km走らなければ」 とか、「訓子府まで行かなければ」 なんて決めることも無く、朝になったら動いて、日が暮れたら眠る。腹が減ったら飯を食べ、立ち止まって眺める。
太陽で照らされた木造の橋のなんと暖かい事か。橋の上で横になると背中からぽかぽかして眠ってしまう。全部自分の自由な時間です。
「斜里峠を越えたら今日は終わりにしよう」 「快適なキャンプ場を見つけたので停滞しよう」 「気の合うサイクリストに出会ったので半日話し込んでしまった」 等といいながら自転車の 「旅」 を続けました。
持ち物は・・・
お金が無いかわり荷物がやたら多くなりました。そのほとんどは「米」です。
7升〜8升の米、飯ごう、塩、ゴム合羽、ゴム長靴、冬物セーター、ジャンバー、軍手等ですが、自転車の両脇につけるサイドバックなんて便利なものは有りませんから、後部荷台だけが頼りで、そこに20sを超える荷物を積むと、交差点などで降りたとき前車輪が浮き上がり、46sの体重では自転車のハンドルを押さえ込むのに苦労しました。
体力的には、出発した当日は張り切っているのと、初日の元気さがあるので良いのですが、問題は2日目です。一日に
12時間も自転車で走ることは普段ありませんから、初日の疲れと筋肉痛で、2日目はほとほとイヤになります。
でも、引き返しても2日かかると思うと前に進むしか有りません。それを乗り越えると3日目からは体も慣れて、朝6時から夕方6時までなんなく走ってしまえるのは10代の特権でしょうか。
どこを走った・・・
昭和30年代後半・・・ 少年の「自転車旅行」は情報不足の旅・・・。
これからの先の天気予報も入手せず、台風の接近も知らないままの出発です。
手元にあるのが60万分の一の地図一枚では、おおよその距離が解っても、峠の難易度や街と街の区間距離など解るすべもなく、ましてや自分が自転車で一日どれほど進めるのかも計算しないまま勢いだけで出発しました。
砂利道と、鉄で作られた昔の自転車では一日いっぱい走ってもせいぜい50q〜60qしか進む事が出来ません。
一回のツーリングの期間は10日から2週間ほどですが、旭川から襟裳往復、旭川から支笏・洞爺・函館往復、旭川から網走・阿寒方面一周と、3年間
(3回) に分けて稚内方面を除く北海道内をやみくもに自転車を走らせていました。
出会う仲間は・・・
自転車で走っていると、次々と現れる町や村、集落は、自分が常に思っている「どこかに行ってみたい」という「放浪癖」を充分満足させてくれました。
北海道という小さな規模では、どこの町や村に行っても違いが有るわけはありません。せいぜい海岸の街と、山間の街の違いくらいです。それでも自分の村から外に出ることが無かった少年には、同時に「冒険心」をも満たしてくれました。
また、どんな形であれ 「旅行は贅沢」 の風潮があった時代、自転車旅行者はとても少なく、何日かに一度、自転車で旅をする人たちに出会うと、友人にでも出会ったようです。
誰もが自分と同じ「極貧旅行」なので、困難に遭遇した話も理解でき、情報も交換でき、また、価値観と「旅」の目的が共通している人達が多いので、一期一会ながら、夢や人生観を語り、コミュニケーションをとれる素晴らしい人たちでした。
なにが見られた・・・
ただ「東の方に行ってみたい」との思いだけで、事前にルート計画を立てずにいきなりの出発ですから、途中の「観光地」などもちろん知らずに通過していました。
60万分の一の地図には、洞爺湖や阿寒湖などの有名な場所は記載されていても、他の 「見どころ」 は記入されていません。
ただやみくもに、次の町、次の町を目標に路面ばかり見ながら走っていましたが、その時、地形と天気が係わった、再現できないような景色に遭遇することがあります。
台風の襟裳・黄金道路。 雲の上に出てしまった阿寒横断道路。 朝霧に包まれた占冠村。 半日も自転車を押してやっとたどり着いた峠の上から見る山々の連なり。 そこから風を受けて下るスピード感と爽快感は格別です。
距離は短くても
快適・下り坂です
資金は・・・
資金不足もすごく、持ち金320円 (現代の価値にすると3000円くらい) をポケットに2週間もの旅に出るのですから、いくら交通費が自転車といえども大変です。
当時の少年に 「毎月の小遣い」 は無く、ましてや 「お年玉」 なんて一度も戴いたことがありませんから、せいぜい
「銅線を拾って売った」 とか 「壊れたラジオを直して売った」 程度のお金です。でも自由になるお金を持ったことがない少年にとって、
100円札3枚 (300円) は何日も何日も自転車旅行が出来るような気分にさせてくれます。
荷物を準備していると父親が 「何処か行くのか?」 と聞いてくれたので、その次に 「お金有るのか?」 と聞いてくれるのかな〜と期待しましたが、一言、
「気をつけて行って来い」 少年は 「ウン・・」 と言ったまま出かけていきました。
このような道路を
自転車で
一人で走るんです